老虎伝。 Feed

2007年8月12日 (日)

8月11日。

すでに呼びかけに反応は無い。

酸素マスクの下の口は開いたまま。

心電計の数値が、肺内酸素量、呼吸回数、
そして心拍数がだんだん落ちてくる。
それぞれの数字が反転して、警告アラームが鳴る。

鳴ったところでもうどうしようもない。
兄は昔の思い出を親父に語りかけるが、
僕はこんな自体に、見守るだけの医師や看護師さんに
そういうことが聞かれるのが照れくさいなどと思ってしまう。

心拍数がいったんゼロになって、また戻る。
でも、もう呼吸をしていない。

そして、口は開いていても穏やかな表情だったのが
瞬間、強く我慢をするようにしかめっ面になって、
開いた眼から大粒の涙がこぼれ、

また表情がもとに戻って、

心拍数がゼロのなり、
すべての電子波形が横棒になってしまった。



前日から良くない状況での小康状態で、
長くはないと思ったが、
そんな話を兄弟でしているさなかの急展開だった。
午前は付き添ってた叔父も安心しきって自宅に戻って
孫と遊んでいた。


臨終の場に招かれるのは、
本人がいま一番心配している顔ぶれだと、よく言われるのは迷信か。

兄と僕。
一番献身的で、積極的で、たぶん親父も気に入っていたであろう、
明るく陽気な看護師のお姉さんがこの日の当番。

車検上がりの車をとりに行っているはずのこの日、
検査工場がこともあろうに僕の車をヘコめてくれたので
引渡しが引き伸ばしされ、病院までは電車移動になったが、
結果として主要道路の帰省渋滞を回避していた。


長い闘病生活につきあってきた僕ら兄弟は
涙ひとつこぼさなかった。

日にあけず、看病してくれた義叔母はこの日に限って居合わせず、
病院では退院の準備がはじまった。

女っけなしの、男ふたりでとりくめば、
ほんまに味気ない、ただのイベントの片付けになってしまう。

泣いていた看護師さんも中座して戻ってきたときは
もうすっかりあっけらかんとして、
亡骸の洗浄や着替えを施し、病院を出るまでの手続きを、
いつものような調子で僕らに伝えてくれた。

兄が公衆電話で葬儀屋の手配をはじめた。
フランチャイズで看板をおんなじ看板をあげているのに、
本部が直営の支店を出してきて、
迷惑してるみたいな葬儀屋の愚痴まで聞かされていた。

叔父が戻ってきた。
親父が息をひきとってすでに2時間経っていた。
バツが悪そうなのを病院スタッフの見解のせいにしていた。

葬儀屋が黒ネクタイに白衣で寝台を引いてやってきた。
廊下で、看護師さんたちが一斉に走って各部屋の戸を閉めた。

看護師さんが検死した医師に見送りの場に来ていることを確認した。

寝台車に乗車するのが必然自家用車の無かった僕に決まり、
決まりごとで僕が死亡診断書を携帯することになった。

廊下をするすると運ばれていく寝台につづいて、
僕は歩く。当直の看護師さんたちが深々とお辞儀をしている。


ああ、きょうはあのかあいらしい看護師さんはお休みか。

彼女が明日以降、出てきても親父の名札が外された空の部屋があるだけで、
病棟の日常は普通に流れていくだけなんやなぁ。


病院裏の職員駐車場から亡骸が車に移される。
看護師長さんと医師に見送られる。
親父の脇に乗り、車は親父が居た兄の自宅に向かって出発した。

おふくろのときも親父と乗った寝台車。
また、一緒かいな。


なあ、親父。

僕らがもっと優秀で、もっと稼ぎがよかったら、
もっと綺麗で楽しい介護センターに通わせてやったのに。
ああ、それよりももっと商売も好きなだけつづけさせてやれたろうに。
きょうのような暑い日にもっとクーラーつけてもやれたろうに。

認知症で手のかかる親父を面倒くさいと思ったりもした。
どうにかしてくれと、思ったりもした。
冷たく当たり、不覚にも手をあげてしまったこともあった。

病気ももっと積極的に治療をすすめて、延命処置もしてあげたのに、
病院に通いながら、かかる医療費を気にしていた。
早く終わることを期待していたこともあった。

認知症の自覚のあった頃の親父は、繰り返す間違いに
お迎えが来たら、逝きたいと、こぼしていた。

すすむ体の不調を、心配をかけまいと、大丈夫だと言いつづけた。

病床で痛みを覚え、
なんで、こんなことになるんや、どないなってるんやと
問いかけてきた。

苦痛で、もうペケにしてくれ(殺してくれ)と吐いた。


でも、僕は憶えている。
入院する直前の親父が「死にとうない」とつぶやいたのを。

すまんかった。何もしてやれんかった。

ほんまにすまんかった。


またむこうの世界で再会したら、
スタンドで親父とおふくろが観ている理想の甲子園で、
梶岡と、村山の次に、
あんたらが夢見てくれたように、僕がクローザーでマウンドに上がるから。

それまでウグイス嬢のコール、楽しみに待っててや。

2007年7月30日 (月)

線香花火。

親父の容態が落ち着いている。

心電計も、酸素マスクも撤収された。咳き込んでむせる様子も無い。
終始穏やかで、看る側も手を焼くことがほとんどない。

しかし、投与される点滴の内容が変わったり、
色んなものが親父の身体につながっている。
そういう意味では容態は確実にすすんでいる。

命途絶える直前に、何故か誰しも奇跡を思わせるような回復ぶりを見せる。
そして、その様子が嘘だったようにストンと落ちるように、
逝ってしまう。

おふくろもまさにそんな最期だった。

穏やかにやすむ親父を家族はベッドの脇から怪訝な眼でみまもるしかない。

2007年7月16日 (月)

車庫入れ。

雨が入るのを気にしながら、窓を開け、
駐車位置の確認。

負けた日に六甲颪がヘンかよ。
ウチの親父の応援歌なんで、すんまへんなあ。

土壇場。

消灯時間を過ぎて、
暗闇の病室で、苦しいのをこらえて見開く眼。
シャレでもなく虎並みに怖い。
にらみ据える先に心電計。
認知症でもその意味はわかる気がする。
昔のことは忘れないから。


仕事に、恋愛に、人生に、
そして生命に、
藤川球児はおらんのか。


格好は良くなかったけど、
数々のピンチを乗り越えて、なんとか親父はここまできたのに、
最期に苦しんで敗戦投手かいな。

明日は仕事。
付き添えず、親父残して雨のなか、帰路の山越え。
おい、僕の目ぇんとこにもワイパーがないと、
ヘアピンの下り坂は怖いがな。

マキさんの歌、Replayしまくり。

薬師寺。

薬師寺は何のために、そこに建っている。

22年前の西塔再建に瓦を寄進したひとが、ここにおるの、
わかっとるのかいな。

2007年7月11日 (水)

待ち合わせ。

日曜日。

意図的に開け放たれた病室のドア。
廊下を通り行くひとを気にしながら、ときどき笑顔を浮かべ、
親父は寝呆けたように僕に、他人のように
「(兄の名前)を呼んでもらえますか」
「(兄の名前)をよろしうお願いします」と言った。

その様子に、11年前の年の瀬の夜のおふくろを思い出した。

寝呆けたように、でも笑顔で「もう帰ってええよ」と僕らに言った。
お茶屋の自営業で、おふくろという働き手を失って、
親父は暮れの掻き入れ時を、初めてだったが、
どうにか一人で乗り切れたことを伝えて、おふくろは安堵したようだった。
ベッド脇の診察記録に昨日より病痛が強くなったので痛み止めを増量したとあった。
病室を出るとき、横になっていて顔が見えなかったが、
おふくろはやけに大きく手を振った。

それがおふくろと会話を交わせた最後だった。
年が明けて、意識は戻らず、
二週間後に母は逝ってしまった。


きょう親父の病室に心電計が備え付けられた。


親父って、阪神勝ったで。あの憎そい讀賣に。


先発は親父が好きな梶岡か。それともおふくろが好きな村山か。

親父はもうおふくろと、特別な甲子園の観戦の待ち合わせをしたのかも知れない。

2007年6月17日 (日)

父の日。

車椅子でテーブルに向かう親父の昼食を介助した。
あんまし、食べへんかった。

いつものように憧れやった梶岡投手のカード見て、よろこんだ。

咳き込んで、しんどいと言うた。

ベッドへ戻った。
空になってしぼんだ点滴は2本目に交換された。

咳き込みがおさまって、ほどなく寝てしまった。

最後の父の日やったかもしれんのに、
なんも特別なこともしてやれんかった。

2007年4月26日 (木)

老虎。

大きな放物線を描いてきょう、ひとりで3本目のホームランだ。
両手を高く上げてベースを廻る、グレーのユニフォームの背に22番。
敵地・後楽園がゆえに衝撃的な雰囲気が漂う様子が伝わる10チャンネル。

えぇ?また、また?、と
台所のおふくろが夕食の用意の手を止めて、振り返る。

店の閉店業務を終えた親父の自転車が程なく前かごにラジオを載っけて、
玄関の外に到着する。

これやったら今年のジャイ公も恐いことないし、イケるんちゃうか。
食卓に入ってきた親父は上機嫌だ。

自営業の家の少し遅い晩ごはんが始まった。


親父はきょう入院しました。

兄の家族の家で見守るのも限界だと判断せざるを得なくなりました。
もう退院はありません。
まだ興味あることには受け答えするし、楽しいことには笑顔でいるけど
病院に居て、家族と離れる時間がいまより増えれば、さらに認知症もすすんで、
またたくさんのことを忘れてしまうでしょう。
病院に居る理由も、病院に居ることも理解できないまんま過ごすであろう親父。
病気のほうは対処療法しかなくその日に向かうだけ。

介護療養に毎日手を焼き、不謹慎にも楽になりたいと思ったりもしたけれど
来るべき日が来た、家族のやりきれない、しんどい決断でした。


敵地での讀賣巨人戦圧勝ほど痛快なものはない。

あしたの朝の鋭ちゃんのラジオ、またやかましいやろな。
親父は仕事の疲れも忘れた満面の笑顔だった。

1973年4月26日。
田淵の対讀賣巨人戦連続ホームランはその次の甲子園での対戦もつづいて
7打席を記録する。

2006年6月18日 (日)

親子観戦。

兄の家に迎えにいくと親父は
ひと月も会っていないことも解からず
食卓で笑顔でおお、と応えました。

タテジマで3塁側に陣取るタイガースは
親父の理解を困らせるかと心配しましたが
黄黒の帽子が目安になって、
別段迷う様子もありませんでした。

記憶も集中力も数分ともたず
すぐ目線はグラウンドからスコアボードやらスタンドに向いて
まめに「観てるか」と、うながして
打席に目をやるのを確認する必要がありました。

どうにかこうにか藤川×清原の再戦も、
赤星の盗塁も、
今岡と矢野の死球も、親父は観ていました。

リンの2打席のホームランには近くの席のかたから
歓喜の握手を求められ、かなりとまどった様子でした。

車で送り帰す途では
もう野球観戦そのものを覚えていませんでした。
トレーディングカード・ショップで偶然見つけて
親父のために買っておいた梶岡と土井垣のカードを
車中で嬉しそうにながめ、胸ポケットにしまっていました。

何故兄の家に居るのか、何故僕は帰るのか
説明するのに窮する事態になる前に僕は兄の家をあとにしました。

カーステレオが響かせるのは
最近購入したあの中村の鋭ちゃんの六甲おろし。
さっきまで親父に聴かせていた。

1973年、タイガースは優勝を目前で逸した。
亡くなった母がタイガース勝利の翌日、
仕度を急かし朝食を作る手でつけたラジオで
いつも騒々しく奏でられた。
母はニコニコ顔だった。
親父は店の定休日にランドセルを下ろしたなりの僕ら息子たちを
甲子園に連れて行った。

閉め切った車のなかで
その耳慣れた歌に合わせて絶唱しながら

六甲おろしで、

泣いてしまった。

2005年11月 6日 (日)

御堂筋。

親父は軽度の認知症です。

新しいことは覚えられなくて、
忘れるべき習慣もやめられなくて、
ときどき息子の僕に怒られて、しょげています。
おふくろは、とうの先に逝っており、
日中はひとり散歩に出たり、家でくつろぐだけの毎日です。
背中はしゃんとしていて、普通にきびきび歩きます。
ご飯も普通に食べます。
火の始末も戸締りも問題ありません。

この街でお茶屋を50年、
若くして亡くなった祖父から引き継いで頑張ってきました。
でも、家業を継がされなかった息子の僕らは
親父と茶の葉をはさんで、
茶について語ることはほとんどありませんでした。

息子の僕と親父の共通な関心はタイガースです。

テレビを観ているときは
今岡や矢野や現役選手の名前も顔もわかるのに、
テレビを観ていないときの親父の口からは
いまは何故か往年のキャッチャー・土井垣しか出てきません。
本当はピッチャーの梶岡のファンだったはずなのですが。

ボケてても、こんな元気な親父なのに
医者は不治の病があって、もう余命半年であることを、
僕ら家族に宣告しました。

この街が好きで、長男の兄貴家族に遠慮して
独身の次男の僕と同居してきましたが、
さすがに兄貴のもとに迎えられ、
孫たちもいる家で静養させることになりました。

御堂筋の優勝パレード。
2年前もずぶ濡れでいっしょに神戸もハシゴで見に行った。

これが最後の親父との思い出か。
結婚して願わくば男の子をもうけ、
親父と三代でタイガース談義をするのがひとつの夢でした。
もう、叶いそうもない。

通過していく、タテジマの戦士をのせたワゴン。
笑顔で両手を振る親父。

おかしいな、そんなに降ってないのに
目の前がびちゃびちゃで、ちゃんと見えないや・・・

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