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讀賣巨人の永久欠番は、
沢村の14、川上の16、金田の34、
長嶋の3、王の1と
記録や人気の面でまあ、当然の顔ぶれに
もうひとつ、4番があります。
その番号をつけていたのが
黒澤俊夫という選手で、
彼は1947年、当時不治の病とされた腸チフスで還らぬひととなったのです。
遺言として
「私が死んだら、死体に巨人軍のユニフォームを着せてくれ」
と残したとも言われ、球団も追悼の意味から彼の背番号を永久欠番としたのです。
黒澤は旧制大阪府立八尾中学校から旧制関西大学へ進学。
じつは大阪人だったんですね。
そして1936年に「名古屋金鯱軍」に入団します。
名古屋金鯱軍。
(なごやきんこ・・・キンコとは金シャチのこと、名古屋城のシャチホコのこと。)
名古屋金鯱は、ドラゴンズの前身ではありません。
むしろ、いまで言うダービーマッチの相手、
同じ年に創設し、同じ名古屋を本拠地とする球団でした。
「ドラゴンズ」は当時「名古屋軍」と申しました。
名古屋金鯱の系譜は1941年、東京セネタースと合併し、
九州にもってかれて西鉄クリッパーズになりますから、
いまの西武ライオンズの前身というのが正しいですね。
名古屋金鯱は讀賣巨人と「日本最初のプロ野球」試合を行っています。
名古屋金鯱の最後の監督は阪神第2代監督、石本秀一※でした。
タイガースとの初対戦は1936年4月19日、
甲子園でのタイガース結成記念試合の第2試合。
藤村富美男が投手で、5-3でタイガースが勝利しています。
金鯱軍と名古屋軍の親会社はともに地元の新聞社だったんですが、
金鯱軍が名古屋から消えた翌年に政府の「新聞統廃合令」によって
両新聞社は合併し、現在の中日新聞が誕生します。
この経緯が金鯱軍をドラゴンズの前身と勘違いさせちゃうんですね。
余談ですが、タイガースは甲子園での記念試合のあと、
職業野球名古屋大会に参加します。
この大会、名古屋軍側の親会社の主催だったので、金鯱軍不参加。(笑)
それより笑えるのが、大会の前座試合で
わがタイガースがなんとアマチュアの名古屋鉄道局との試合に敗戦。
タイガースはメンツまるつぶれ。
辛抱たまらず翌月に藤井寺に迎えて再試合。
2戦行い、2勝。ようやく気がおさまったんやそうです。
NEVER NEVER NEVER SURRENDAR?
※追記:
そのあとタイガースは甲子園の改修のため遠征。
広島商業高校のグラウンドを使っての
また名古屋金鯱と対戦で
そのとき、主審をやっていた石本と初接触。
なんで、審判やってた石本が監督にするまでの話になったんでしょうね?
さて、終わってみれば勝ち越しやないですか。
タイガースのナゴヤ・コンプレックスはもう無いと思いますよ。
(鳥谷はともかく・・・)
キラーとよばれる先発陣も全部撃ち込みましたしね。
むしろドラゴンズ側に、
ひょっとしたら勝てないかもという意識も植えつけたかもしれませんね。
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